私が生きづらい理由

古久保さくら(大阪市立大学教員)
実施日:2013年9月28日(土)

「生きづらい理由」を言語化する

私がなぜジェンダーの問題について勉強したいと思ったのか、男女の平等や女性の人権に関心を持つようになったのか、私自身がどのように生きづらい理由を発見して生きづらい社会を生き延びてきたのかをお話しながら、皆さんが自分自身の生きづらさを言語化できるお手伝いができればと思います。自分自身の生きづらさについて、本当の生きづらさは他人に喋るのはつらいことです。一番しんどい時は何に対してしんどいのかがわからず、それに対しての言葉がない時がいちばんしんどいと思います。私にとっては、近代的ジェンダーといわれる「男は外で働き、女は家で家事と育児」という圧力が生きづらい理由でした。

私自身の生きづらさについて

母が戦後民主主義の第一世代の教員で、家の中では男女平等は当たり前と教わりましたが、実際は父は仕事で不在、母は家事育児という性別役割分業の環境で、戦後民主主義の男女平等の理念だけが蔓延している家庭で育ちました。

研修風景

「男だろうが女だろうか思ったことは言って構わない」との家庭での教えを学校で実践すると、いろいろと差し障りが出てきて摩擦を起こし、「でしゃばり」「女のくせに」と言われました。学校的価値に順応した家庭で育ったので、中学では先生に重宝され生徒代表のあいさつや級長の指名を受けましたが「女のくせに」と言われ、当時は級長は男と決まっていましたが、「選挙で多くの票を集める女子を級長に」と言ってクラス中がもめたこともあります。高校でも、例えば文化祭で歌う歌を決めるなどで議論をすると必ず勝っていたのですが、男子からは「お前なんか嫁に行けん」と言われ、応戦して「お前も婿に行けん」などと言ってみても笑われるだけで、聞く側のバランスの悪さ、格差があると感じました。同じ「結婚」なのに嫁になることと婿になることとの力関係に差があり、女にとって結婚できないというのは大変良くないことだというメッセージがあることに気づきました。「女の人は『あれしちゃいけないこれしちゃいけない』と言われて大変」という思いを持ち続けていました。

その後京都の大学へ進学し、23歳で結婚しました。自分の体験から「なんか変」がずっとあり、「なんか生きづらい」「なにがしんどいんだろう」という思いをずっと持っていました。ジェンダー・女性問題の考え方が自分にとってはしっくりし、自分の生きづらさに言葉を与えていったというのがあります。

女性とベビーカー(イラスト)

大学院生の夫と結婚し子ども二人を出産したことで、自分に新たに「お母さん」役割が期待されることになりました。3歳までは母の手でという風潮の中、保育園に赤ちゃんの時から入れるのはかわいそうという風に当たりました。保育園は「保育に欠ける子」しか預かりません。1950年代半ばには「保育に欠ける」の意味は、未熟なお母さんが子どもを育てること自体が「保育に欠ける」ということ、お母さん自身が保育園で保育というものを学び続けるためにも、すべての子どもが保育に欠けると考えるべきという議論がありました。 私はこれを読んで「うちの子は間違いなく保育に欠ける子だ!」と思いました。良妻賢母教育を受けず、小さい赤ちゃんを抱っこもしたことがない私が、子どもを産んだからといって今日からあなたはお母さんと言われても、どうやって育てられるのか、そんな能力がどこで身につくのか、そんなものはないと。「保育に欠ける」という言葉はマイナスに見えるが、マイナスになるに決まっていると受け入れるべきだと開き直ることができ、子どもを預けて自分の研究を進めました。

私自身はジェンダー、女性学、フェミニズムの物の見方にふれ、女性がなぜ女性として社会的に位置づけられてしまうのだろうかを巡って先人の女性たちが紡いできた言葉を読み自分の中で消化していくなかで、生きづらかった理由やしんどさを自分の言葉で説明できるようになりました。

多様な性

自分がなぜ生きづらいのかを考える時に、自分で自分の生きづらさがわかっていくときには自分自身に対しても言葉を使って説明していると思います。その時にヒントになる言葉としてジェンダーがあります。

生物学的・性志向・ジェンダー(文化的・社会的性)など性のあり方は多様です。ジェンダーにはジェンダーアイデンティー(性自認)とジェンダーロール(ジェンダー役割)があり、ジェンダーロール(ジェンダー役割)が「女というものは…」という圧力のことです。社会的・文化的ということは時代と場所によって違うことがあり得えます。近代的ジェンダーが崩れて変容しかかっているのが現代です。

女性たちの働き方

これまで多くの女性のライフコースは学校卒業→就職→結婚出産で退職→再就職でしたが、現状は社会に出て働き続ける女性が増えています。「女は結婚しないと」「子どもを産まないと」「子どもを産んだら子育てに専念しないと」という規範の弱まりを感じます。働くようにはなってきましたが、働き方を見ると女性は非正規雇用の割合が多く、収入の男女格差も大きいです。

なぜ非正規雇用なのか?子どもを産んだら働き続けられないという状況があるからです。企業の育児支援が貧困、夫が家事・育児に非協力的という背景があり、子どもを産むと正規雇用から脱落する、正規雇用にしがみつこうとすると子どもを産まない、産む時期を遅らせるということになります。また、中高年になってからの再就職は概ね非正規雇用です。主婦パートは日本で最大の非正規雇用です。主婦パートが登場した時、女性は家事育児をメインにやる(=近代的ジェンダー秩序)のだから、家計補助的な安い賃金でいいと思われ、ずっと安い賃金のまま働かされています。

母子世帯の現状

母子家庭の年間就労平均収入は貧困に陥りやすい水準です。日本のシングルマザーは就業率は高いのに、働いても貧乏という不思議な状況になっています。他の国々を見るとシングルマザーが貧困に陥りにくい社会は作れるのに、日本では作れていないという裏側には女性が一人で子育てをすることへの否定的な価値・まなざし、支援しないといけないという社会的な共有化された認識の無さがあります。

そもそも産んだ母親だけで子育てができるのでしょうか。夫婦の完結出生児数(生涯に何人の子どもをもうけたか)2.2人というのが30年続き、年の近いおじおばがいない親族関係の中で子どもの成長過程をしらないまま子どもを産む、保育の力のないお母さんが出てくるのは人口動態的に見ても当り前です。子育てをお母さんにだけに押しつけない社会づくりが必要です。

背景にある近代的ジェンダー

子を抱く女性(イラスト)

なぜ日本は産みづらいままなのかを考える時、背景にあるのは近代的ジェンダーではないかと思います。「男は家庭外の仕事=有償、女は家庭中の仕事=無償」があるべき姿、役割が違って当たり前と言われ、これを前提に社会が成り立ってしまっています。近代的ジェンダーには◆家庭内での経済格差 ◆人生選択の幅の狭さという問題点があります。

現代は近代的なジェンダー秩序が崩壊しつつ、一方で残存している状況といえ、その矛盾が非正規女性、若年層男性に集中してあらわれていると考えられます。近代的ジェンダーの崩壊で、一部の女性は管理的な職に就けるようになるなど成功できるようになっていて、努力の結果その差が生まれたという解釈が蔓延してしまっています。そうではなく、子育て・介護を負担しようとすると女性の人生が競争の世界だけではやっていけない事情があるんだということが認知されないまま、崩壊と残存が共存している状況だといえるのではないでしょうか。

こういう状況の中、それぞれのスタンスで「生きづらさ」の現れ方は違いますが、このような状況にあるということを言語化して自分の状況を考えた時に生きづらさの背景・理由が見えてくるのではないでしょうか。

私たちがめざす社会とは

女性が一人で生きていくことが可能になるような社会を主張していくべきではないでしょうか。改めてジェンダーの問題に敏感になることが重要であり、育児・介護・家事・地域活動などのアンペイドワーク(無償労働)の負担をどうバランスを取りながら社会を構成していくのかを考えていく必要があると思います。

このように社会を見るようになると、自分のしんどさはすぐには解決しないが、自分一人だけを責め立てるのではなく自分自身が置かれている社会の問題として、多くの人と語り合い一緒に解決していく問題として自分の生きづらさを考えられるようになれるのではないでしょうか。

研修参加者の感想
  • 見たことのあるデータでも知らない情報をたくさん知ることができました。
  • 日本は生きづらい世の中だと思いました。みんなが楽しくいきていけたらいいと思いました。
  • 「男だから、女だから」は関係なく、皆同じ人間であり、一人の人間としてのびのび生きる為に悩み苦しんでいるのだと思いました。視野が広がり考えが深まったと思います。
古久保さくらプロフィール

古久保さくら大阪市立大学大学院共生社会研究科教員。
京都大学大学院農学研究科博士後期課程退学。北海道大学教育学部助手を経て、2000年より大阪市立大学人権問題研究センター准教授。
主な研究テーマは近現代女性史、ジェンダー平等教育。

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